炎上風景を見て栗本薫さんのことを思い出した
という記事を読んで、栗本薫さんのことを思い出した。
小説家で評論家。
ある年代の人にはクイズ番組、ヒントでピントの人というほうがピンとくるかもしれない。
10年ほど前に、56歳の若さでお亡くなりになった。
以前のブログエントリーでファンの心理が分からないと書いたぼくが、唯一ファンだった人かもしれない。
とにかく多作でしかもSFやミステリーから普通の小説、文芸評論まで幅広いジャンルで活躍していた。
ぼくが通っていた中学校はわりと真面目な校風で、まだ素直だった当時のぼくはそんな学校の方針のせいかとても縮こまった日々を過ごしていた。
そんなある日、彼女の「グイン・サーガ」という物語と出会って、それまで白黒だった周りの世界に色があることに気づいた。
それくらいぼくにとっては大事な作家だった。
彼女は多才でバンドもやっていたし舞台の脚本や演出も手を出していた。
「グイン・サーガ」のミュージカルも上演し、当時まだ地元で見に行けなかったぼくはそうとう悔しかったことも覚えている。
余談だけど、そのミュージカルのおかげで相当な借金もしたそうだけど。
その後、演劇の世界で暮らす中で彼女とお仕事でご一緒させていただいたりもした。
一度は小さいスペースでの実験的な作品だったけど、照明デザイナーとして演出家の彼女と関わることもできた。
もちろん、本人にファンではとは言ったことはない。
そのくらいのプライドは持てるようになったころの話。
でも狭い調光ブースで彼女がすぐとなりに座って本番の舞台を見ているシチュエーションには、ファンとしてはかなりテンションが上がった。
そんな彼女が、今回の仮面女子の件と似た話で炎上したことがある。
2002年。
北朝鮮による拉致事件の被害者5人が帰国したときの話。
彼女は自身のwebサイトでこんな発言をした。
「蓮池さんは「拉致された人」としてのたぐいまれな悲劇的な運命を20年以上も生きてくることができたわけで、それは「平凡に大学を卒業して平凡に就職して平凡なサラリーマン」になることにくらべてそんなに悲劇的なことでしょうか。他の人間と「まったく同じコース」をたどることだけがそんなに幸せで無難でめでたいことでしょうか。私にはどうもそうは思えないのですねえ…」
まだTwitterとかFacebookが一般的ではなかったころだけど、ネットの掲示板などでかなり炎上していた。
炎上のことを聞いて思ったのは
「栗本さんならそう言うだろうな」というもので、発言内容への以外さは全くなかった。
彼女がこだわっているのは「物語性」で、それは小説でも評論でもあるいは音楽や演劇という彼女の表現活動の全てに通底して流れているテーマ。
ある評論では「食欲」や「睡眠欲」「性欲」という人間の基本的な欲求の中には「物語欲」があるのではと語ってもいた。
彼女の言う物語はコンテンツとして流通するものではなく、自己の承認欲求を満たすために「自分を物語化」する行為が人間には必要というもの。
彼女にとっては、ごく当たり前で普通の人生よりも、波乱に飛んだ誰とも似ていない唯一の人生のほうが圧倒的に価値が高いのだ。
今回の炎上をめぐるやり取りを見ていると、かなり当時の栗本さんを取り巻く状況と似ている気がした。
元のライターさんへの反論に
「半身不随になってまでアイドルとして売れたい人がいるわけがない」
「ツライ目に合っている彼女に対して残酷」
というものが多い。
まあ正論だとは思います。
でも栗本さん流に言えば、
「不幸な出来事でも自分の中で物語化できればもっとポジティブに生きられる」ってことで、多分このライターさんも自分へのバッシングへの反論を見ると、それに近い感覚で言ったような気がする。
とはいえ、元のツイートの表現は稚拙だけどね。
ぼく自身は「自分を物語化する」ことにはとても共感するし、これからの時代にはより有効な考え方だとも思うんだけど。
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